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オードリーヘップバーンのおすすめグッズ

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オードリー・ヘップバーンの略歴

 

オードリー・ヘップバーンは、アイルランド系イギリス人の父ジョセフ・ アンソニー・ヘップバーン・ラストンとオランダ人の母エッラ・ファン・ヘームストラ(貴族の出)のもとに、 ベルギーの首都ブリュッセルで生まれました。

 

オードリー・ヘップバーンは、 5歳でロンドンの寄宿学校に入るったのですが、10歳のときにはオランダへ移住し、 第二次世界大戦中は反ナチスのレジスタンスに従事していました。

 

16歳の時、オランダの病院でボランティアの看護婦をしていましたが、マーケット・ ガーデン作戦で大激戦地となったアーネムの病院で一人の英国空軍兵を介護し、 何と20年後彼は監督になって彼女の作品を演出することになりました。

『暗くなるまで待って』のテレンス・ヤングです。

 

また、戦争中、食料がないときはチューリップの球根を食べ、飢えをしのいだということです。

 

オードリー・ヘップバーンは、アンネ・ フランクと同い年で、戦後、オードリーはアンネの事を知りひどく心を痛めたといいます。

 

後年、映画『アンネの日記』のアンネ役のオファーもあったのですが、 辛い過去を思い出すのを恐れて断ったそうです。

 

ロンドンでバレエを習うなど、ヨーロッパを中心とする各国で生活した経験を持ち、そのためか英語、 フランス語、オランダ語、スペイン語、イタリア語に抜群に堪能でした。

 

オードリー・ヘップバーンは、 華奢で日本人に親しみやすい風貌と言われ、そのファッションも憧れの的となりました。

 

『ローマの休日』のアン王女役、『麗しのサブリナ』のサブリナ役などで一躍有名となりました。 現在でもその人気は根強く、写真展などのイベントが開催されるほどです。

 

映画への出演数はそれほど多くはないものの、『ローマの休日』ではアカデミー主演女優賞を獲得。その後も 『マイ・フェア・レディ』、『ティファニーで朝食を』などに出演。オードリーの魅力が十分に生かされた作品ばかりでした。 本人によると『マイ・フェア・レディ』では歌唱部が吹き替えられ、また『ティファニーで朝食を』 では主人公が彼女の本来のイメージとはかけ離れており、どちらもがっかりしたといいます。ただし、作曲家のヘンリー・ マンシーニはオードリーをイメージして名曲 「ムーン・リバー」を作曲して、広く親しまれています。

 

1963年、マリリン・モンローが当時の米国大統領ジョン・F・ケネディの誕生日で「ハッピー・バースデイ」 を歌ったことは非常に有名ですが、 実は1964年にオードリーも歌っていたことはあまり知られていません。

 

オードリー・ヘップバーンは、 1954年に俳優のメル・ファーラーと結婚、息子ショーンが生まれるが離婚。後に精神科医と再婚しましたがまた離婚。 オードリーの出演歴が1960年後半から1970年代にかけて欠落しているのは、 子育てに専念するため、引く手あまたの大作の出演を拒否し続けたためです。

 

1989年の『オールウェイズ』を最後にオードリー映画界を引退。 晩年はユニセフ親善大使に就任し、インドやソマリアなど世界各地でマザー・テレサのように貧しい人のための活動も行っていました。 その一方で「世界の庭園」という番組のホスト役として、7ヶ国・16の庭園を訪れています。

 

オードリー1993年1月20日、 結腸ガンで亡くなりました。

 

死後10年以上経つ現在でもオードリー 「スクリーンの妖精」として世界中のファンに親しまれています。

 

また、2005年現在、アカデミー賞、トニー賞、エミー賞、グラミー賞を全て獲得した9名の中の一人です。

 

出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』